關頑亭さん逝く 国立・谷保に生まれて1世紀

彫刻と絵画を奥深く求めて

麻布片と漆を交互に塗り重ねる脱活乾漆技法による薬師如来像(2014年4月、95歳の時制作)。「右手をかざし、左手には薬壺を」と解説してくれた頑亭さん

 「頑亭さん」「頑亭先生」と敬い慕われてきた彫刻家で画家、書家でもあった關頑亭(せきがんてい・本名=保壽)さんが先月18日、他界された。101歳と3カ月。傍らで看取った長男の關純さんによると「さつま芋のしっぽのひげのように、細くなって一生を終えたい」と、ご本人が前々から口にしていたように、靜かに息を引き取られた。

根性を食べて、人生飄々と

鯰(ナマズ)は頑亭さんがよく描くモチーフだった。2011年10月、くにたち郷土文化館で開催された「関頑亭 谷保から国立へ」展にて

 ここ4~5年はベッドで、時折、筆を握る日々だったそうだが、昨年4月に開かれた「壱〇〇歳 関頑亭先生を囲む会」では、紋付き袴姿で時折、笑顔を浮かべていた頑亭さん。讃辞を述べた写真家の田沼武能(当時90歳)さんは「頑亭先生は常にボクより10年先を走っている存在だが、未だに眼鏡も掛けない。仙人みたいだ。何を食べているのかと聞いたら、根性だと」。
 大正8年(1919年)、多摩郡谷保村(現国立市)に生まれた頑亭さんは、子どもの頃から絵や工作が得意だったが、不登校児に近く高等小学校しか出てない。
 17歳のとき、後に文化勲章を受章する澤田政廣の内弟子として4年ほど過ごしたが、彫刻の修業はおろか、ノミすら持たせてもらえなかった。「それが良かった。学ぶことは真似ることであるが、余計な癖がつかなくて済んだ」と語っていた。
 器用さを嫌い、モノの本質を求め「風景は心を写すもの」「作業を通して自分を作っていくのが彫刻」と、己と闘い続けた生涯だった。が、90歳の書=写真下=の如く飄々と人生を愉しんでいた。

戦地で密教の死生観に触れ

 頑亭さんは21歳の時、兵役で冬は零下30℃を下回る満州(現在の中国東北地方)へ。独立守備隊の任務についたが、戦闘の合間にも、内地からのハガキの余白に、風景や人物などを走り描きした。
 ハルビンの戒律の厳しい極楽寺へ軍務で送り込まれ、飢え死しない程度の食糧と水で厳しい修業の毎日。いやでも生と死を考える。密教の死生観にも触れ、生きて帰国できたら、中野・宝仙寺の富田?純(こうじゅん)老師を訪ねるようにと諭された。
 幸いにも帰国でき、訪ねた宝仙寺は戦災で全焼。頑亭さんは焼け跡からケヤキの切り株を掘り起こし、本尊不動明王の台座と光背を制作奉納した。その後、山門の金剛力士像(仁王像)の阿像を澤田師が、吽像を頑亭さんが制作して、父喜太郎さんの名で奉納された。
 その間7年余、同寺へ日参した帰途、立ち寄ったのが後に結婚した民夫人(2010年他界)が営む居酒屋だった。「若干20代後半の若僧に、仁王像のような大作を彫らせるなんて……頑亭さんには何かがあったのね」と、生前の民さんは語っていた。帽子作家として半世紀余、頑亭さんを支えてきた。
 92年10月、平安末期以来という脱活乾漆技法による弘法大師座像の大作を完成させ、宝仙寺に奉納を終えたとき、民さんは「頑亭さんの目指してきたものが、やっと理解できた」とも。

国立の生き字引だった

 直木賞作家・故山口瞳さんとの交流はつとに有名で、ドスト氏として作品にしばしば登場。ドストエフスキーのドストで、風貌とスケールの大きさからだが、お二人を中心とした交流は国立のイメージアップに、どれだけ貢献してきたことだろう。
 その山口さんとの取材旅行から帰り着いた1952年3月25日夜半、頑亭さん宅が全焼してしまった。翌朝、山口さんら国立仲間は焼け跡の片づけに駆けつけ、多額の見舞金も寄せられた。
 今年4月、赤い三角屋根の旧国立駅舎が復元されたが、その駅舎が建設された大正15年(1926)。駅前に最初に店を構えたのは、頑亭さんの父喜太郎さんだった。米や味噌醤油、雑貨を売る店を旭通りに開いた。
 「壱〇〇歳 関頑亭先生を囲む会」発起人の一人だった佐藤収一さん(79)は、「国立の生き字引がまた一人消えた。われら新老人が頑張らなければ!」と、語っていた。(中込敦子)

Comments are closed.