大髙重治・手書きデザインの美 ラベル、ポスターなど国立市のギャラリーで12月27日まで展示

ラベル・ポスター展示 12月27日まで、国立市で

「キング・オブ・ブレンダーズ」の原画

「キング・オブ・ブレンダーズ」の原画

 「文字は書くもの、絵は描くもの」と、終生、手書きデザインにこだわった大髙重治(しげじ)さんが94歳で亡くなって12年が経つ。国分寺市本多4丁目の自宅のアトリエには80年間、ペン1本で生きた職人の魂から生み出されたラベルやポスターなどの原画が残されていた。国立市のギャラリー明窓浄机館(めいそうじょうきかん)で大髙重治のデザイン展が開かれている。

“ひげのニッカ”誕生

1965年、東商美デザインショーで竹鶴氏(左)と

1965年、東商美デザインショーで竹鶴氏(左)と

 大髙さんはニッカウヰスキーのデザインを一貫して手がけた人だった。会場に入ると見覚えのあるひげの王様の顔のラベルやポスター、パッケージなどの原画が約50点並ぶ。「新商品が開発されて、そのデザインを決めるときは、まず、大髙に頼め、というのが竹鶴政孝社長の口癖だったようです」と、同ギャラリー・佐藤収一館長は語る。
 竹鶴政孝といえば今、NHKの朝の連続ドラマ「マッサン」のモデルで、ニッカウヰスキーの創業者だ。情熱的で、妥協を許さない竹鶴社長とオリジナル性のある手書きにこだわった大髙さんには通じるものがあった。
 「ひげのブラックニッカ」が登場したのは1965年。片手に大麦の穂を持ち、鼻に小さなグラスを近づけて、ブレンドのための原酒をテイスティングしている。余裕のある温かい青い瞳。明るくし親しみやすい「キング・オブ・ブレンダーズ」のラベルを作った。
 タマゴの殻を泥絵の具で色付けして、張り合わせるモザイク手法を下敷に作品を練り上げた。カラー写真のない時代。商品の絵は泥絵の具で描いた。ビンの立体感、琥珀色をしたウヰスキーの存在感。展示してある原画を見ると優れた写実力に圧倒される。
 「曲線に直線的なアルファベットは違和感がある」と、ビンの曲線に合わせて文字を書き、ビンとラベルの一体感を表現した。
 生真面目で、丁寧な仕事をする大髙さんを竹鶴社長は亡くなるまで信頼し、ニッカウヰスキーのほとんどのデザインを任せていた。

丁稚奉公先で技術を学ぶ

ニッカの贈答用化粧箱を制作中の大髙重治さん(50歳代の頃。国分寺のアトリエで)

ニッカの贈答用化粧箱を制作中の大髙重治さん(50歳代の頃。国分寺のアトリエで)

 大髙さんは1908(明治41)年、深川の薪炭問屋の次男として生まれたが、1923(大正12)年の関東大震災で家を失い、兄を亡くす。その後家業が傾き、尋常小学校卒業後、叔父が経営する千代田区神田にあった三陽堂図案房に丁稚奉公に入った。そこで製版や版下製作にかかわった。
 1930年代後半、大髙さんが勤めていた印刷会社に大日本果汁会社(後のニッカウヰスキー)から林檎果汁のラベル図案制作の受注があった。まもなく、直接大髙さんに大日本果汁から図案制作の依頼がきた。そのときに作ったのが1940年に発売されたニッカウヰスキー第1号のポスターだった。デザインの教育を受けることなく、独学で独自の世界を築いたという生い立ちも竹鶴社長の気に入るところとなった。
 1961(昭和36)年、鶴竹会長(当時)の妻・リタさんが亡くなった時、竹鶴会長から直接頼まれて碑文を手書きした。北海道にあるニッカの余市工場を見下ろす丘に建つ墓碑の裏面に、大髙さんが書いた英文字が刻まれている。

貴重なオリジナル性

大日本果汁時代のラベル

大日本果汁時代のラベル

 ニッカの仕事の他には、丸美屋食品の「のりたま」のパッケージや、清酒のラベルも制作。67歳でキリスト教の洗礼を受けた後は、キリスト教関係の本の装丁の仕事も多く手がけた。
 製図用のペンである烏口、雲形定規、筆、コンパス、泥絵の具が大髙さんの道具だ。これらの道具を駆使して、生涯、助手も弟子も持たず、自分の道を追求した。
 「現代はデジタル時代ですが、ハンドメイドから生み出されるオリジナルメッセージを味わって欲しい」と、言う長男の大髙明さんも写真家として自らの世界を追求している。

■大高重治 手書きのデザイン展 12月27日まで(日曜、祝祭日休み)、10時~17時、ギャラリー明窓浄机館(国立駅南口から富士見通りを徒歩10分)。入館料大人100円。小学生以下無料。電話番号:042-576-0561(株式会社サトウ総務部) http://meisoujoukikan.net

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