日本で一番古いとされるメタセコイア並木道
かつて秋留台地に、16万5000平方㍍もの敷地を占めていた秋川高校は、英国の全寮制名門校イートンカレッジをモデルに、都立の全寮制男子高校として創立。海外や他府県に在勤する家庭の子弟、伊豆諸島出身者、帰国男子生徒などを受け入れ、時代の幕開けを感じさせられた。正門から北へ約500㍍、メーンストリートの両側に120本のメタセコイア並木が続いていた。落葉針葉樹で、真っ直ぐ空に向かって伸びる雄姿は、3年間同校で寝食を共にし、学ぶ学生にとって希望であり、無二の存在だった。
メタセコイアは“生きた化石”と呼ばれ、数千万年前以降、絶滅したとされていたが、1945年中国四川省で、その現生種が発見された。その年に生まれた一期生の手で、現生種の種から育てられた並木は、日本で一番古いメタセコイア並木とされる。
黒き秀才であるべし
当初は一学年定員240人、一クラス40人。白亜の教室棟に体育館、図書館、食堂の他、職員宿舎もあり、全都から選ばれた教師も理想の教育を求め、「黒き秀才であるべし」を目指していたという。大学受験だけに偏らず、スポーツや野外活動にも生徒教師が一丸となって、取り組むのが校風であった。「玉成寮」と名付けられた3棟の寮棟には一室8人。寮の生活指導教諭は舎監と呼ばれていた。2期生の石川達夫さんは「寝食を共にするだけに、人間教育の道場で修羅場を潜り抜け、実の兄弟のような友もできた」。寮では規律に厳しく、「喫煙が見つかればツーストライクでアウト。つまり2回目で退学させられた」と言う。
教育をめぐる時代の流れで廃校に追い込まれ
恵まれた環境と理想教育を目指していた秋川高校だが、学校群制度をはじめ、教育をめぐる時代の急激な変化で、家庭環境に問題を抱える生徒にも門戸を開放。その結果、学力の低下や中途退学も相次ぐ。1995年には募集定員120人と半減。1997年からは80人に。2001年3月、34期生を以って閉校することになったが、その前年に三宅島の噴火火災による全島避難のため、都立三宅高校、三宅村立三宅小、中学の臨時分校も併設された。2007年それらの措置が解消された2年後、校舎施設は解体された。その後、都の閉鎖管理地として立入り禁止になっているが、メタセコイア82本は約300㍍に亘って現存している。
年を経るごとにOB生の並木に寄せる熱は高まり、2015年秋には「AKIKAWA50」と称して、開校50年同窓会が開かれ、880人余のOBで盛り上がった。その翌年にはメタセコイア並木保存を訴えて、1万2000人の署名を都に提出した。
今回の「あきる野百景・メタセコイア写真展」は、同窓生が撮った写真で、メタセコイア並木50年史を2会場で展開。
メタセコイア写真展
▽イオンモール日の出1階レストラン街=10月7日~14日10時~15時半、約120点展示。秋川駅からバス。または、武蔵引田駅から徒歩10分。
▽あきる野市役所コミュニティホール=10月10日~13日10時~15時半、約80点展示。秋川駅から徒歩10分。
http://www.akikawa.tokyo/ 電話番号080-9365-3823(10月5日~14日まで)同実行委員会