vol.15 湖底に沈んだ湯治場 奥多摩町原

集落はなくなったが「湯場」のバス停は残る

集落はなくなったが「湯場」のバス停は残る

 前回紹介した奥多摩湖畔の食事処「丹下堂」は、日帰り温泉も併設する。
 小河内ダムの完成とともに湖底に沈んだ旧小河内村には、鶴の湯と呼ばれる温泉があった。鶴の湯温泉は南北朝時代から利用され、江戸時代には文人墨客らが来遊して賑わったという。奥多摩湖沿いのバス停の名前にある熱海(あたみ)、湯場(ゆば)、女の湯などは、鶴の湯温泉のあった地域の集落名に由来する。

奥多摩湖を望む売店も営む。ここから湖畔の変遷を見つめてきた丹下榮さん

奥多摩湖を望む売店も営む。ここから湖畔の変遷を見つめてきた丹下榮さん

 「丹下堂」を営む丹下榮さん(72)は湯場出身。ダムが完成した1957年11月の直前の夏までを湯場で過ごした。
 幼い頃の湯治場は賑やかだった。温泉神社の両脇には立派な旅籠があった。川の水は澄んでいて、イワナやヤマメを釣るのに夢中になった。川遊びをして体が冷えると、湯治客に混じって掛け流しの湯の滝にあたったり湯を汲んだりして体を温めた。
 小学生になると村を離れる人が徐々に増えた。学校で先生が「今日で○○さんが引っ越します」と話すと寂しさを感じたのを覚えている。ダム完成を控えた57年の夏、中学3年生になっていた丹下さんは同級生たちと共に、中学校の備品を背負って新しい小河内中学校(奥多摩町峰谷、2004年に閉校)まで運んだという。
 一家は今の丹下堂がある場所に移転し、食堂を始めた。丹下さんは高校進学とともに都内へ移り、20歳で奥多摩町に戻って来た。以来半世紀が過ぎた。
町内外に鶴の湯温泉の湯を運ぶタンクローリー=給湯施設で

町内外に鶴の湯温泉の湯を運ぶタンクローリー=給湯施設で

 水没することになった鶴の湯温泉は湖底からくみ上げられるようにポンプや導水管が設置されたものの、権利者の話し合いがまとまらずに長年放置されていた。ダム完成から30余年がたった1991年、温泉としての再利用が実現。湖畔沿いにある源泉近くの給湯施設でタンクローリーに詰められ、町内外の旅館や民宿、入浴施設などに運ばれている。神経痛や切り傷、慢性皮膚病などに効くというその効能から、毎週入浴に来る人もいる。管理・運営する「小河内振興財団」の代表として温泉復活に尽力した丹下さんは、一日の仕事を終えて温泉につかるのが日課だという。
 生まれ育った故郷は水没前に整地された。戻る場所がなくなったことに寂しさはある。町の人口も減少を続けている。それでも、昨夏には地元出身の若者や移住者らが盆踊りのイベントを開催するなど、新しい動きもある。「故郷は沈んだけれど、温泉は残った。昔の記憶を大切にしながら、地域の魅力を伝えていきたい」

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