vol.62 記憶を語りつぐということ

 2011年3月11日に起こった東日本大震災から丸7年を経た。死者と行方不明者合わせて1万8432人。未曾有の大災害がもたらした、被災地のドキュメンタリーを東松島市中心に追ってきた。最終回となる今回も、東松島市の「今」を伝える。

「すみちゃんの家」では

 津波が押し寄せた東名漁港。現在は、カキの養殖が行われている


津波が押し寄せた東名漁港。
現在は、カキの養殖が行われている

津波被害を受けた「すみちゃんの家」(NPO法人のんびーりすみちゃんの家・東松島市東名)は、高齢者の介護支援を行う事業所だ。震災後、わずか3カ月後に奇跡的ともいえるサロンの復活を果たした。その後、2016年11月にすでに高台に移転していた仙石線の東名駅近くに移り、新施設で通所や居住といったサービスを行ってきた。新しいすみちゃんの家の周辺は、新築の住宅が立ち並び郵便局やスーパー、新設された小学校なども整って、町の形ができつつある。

伊藤壽美子さん

伊藤壽美子さん

 すみちゃんの家の伊藤壽美子代表に聞いた。
 「新しい町はどうですか?」
 「津波が来るまで住んでいた所は、夕飯のおかずを分け合うようなコミュニティーがありました。高台ではそれがまだ育っていません、これからです」と言い、「若い世代の流出が止まらないです」と伊藤さん。

東松島市の仮設住宅。高齢者が残っている

東松島市の仮設住宅。高齢者が残っている

家が次々と建つ東名駅周辺

家が次々と建つ東名駅周辺

被災体験を語りつぐ

鈴木由香さん

鈴木由香さん

 被災地の全ての人が、3・11の物語をもっていた。普通の人々の記憶を書き残したいというのが、この連載のスタートだった。そして多くの出会いがあった。
 すみちゃんの家で働く鈴木由香さんもその一人だ。由香さんは、あの日、東名漁港の近くにあった実家の母親を失った。自身の家族は無事だったのは幸いだったが、「友人が夫と子どもを亡くして一人になったのを知って、それに比べたら私は一人だけしか失っていないと、やはり母の死を泣くことができませんでした」
 それは気丈であると言うことではない。泣くこともはばかられる、緊張した環境だったということだ。
 由香さんは母親の遺体を探しながらも随分長い期間泣けなかった。泣いたのはボランティアの歌を聞いた時だったという。それは、震災から3カ月後だった。母親の遺体が見つかったのは、さらにその3カ月後だった。
 伊藤壽美子さんは、語りべとして被災体験を伝承することを自身に課している。そして、周囲の被災体験者にもこう言う。
 「あの日のことを自分のことばで語ることで、必ず気持ちは整理されていくよ。苦しかったこと、悲しかったことを言っていいんだよ」と。
 記憶を語ることが被災した自分たちの使命でもあるという。そして、取材を通じて貴重な体験を聞いた私には、記録者としての使命があると思った。
2011年5月、津波で全壊した特養マリンホームで桜の木がたった1本咲いていた

2011年5月、津波で全壊した特養マリンホームで桜の木がたった1本咲いていた

 約7年にわたる連載は、ともすれば時間と共に記憶が薄れていく被災記録を、再び人々に届ける営みとなった。多くの方のご協力を得て、7年間、被災地の伴走者となれたことが私のささやかな復興支援だ。今後も見続けていきたい。ご愛読ありがとうございました。
 (介護福祉ジャーナリスト・甘利てる代=八王子市)

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