髪の長いその女子高生は駅の改札から笑顔で出てきた。石巻からの学校帰りだった。彼女が卒業したのは宮城県東松島市立野蒜小学校。東日本大震災が起きたあの日、小学校6年生だった少女は、現在「語りべ」として活動を行っている。
記憶をしまい込まないように
多くの死者を出した野蒜小学校の体育館。あの日、学校には体育館に避難した小学生と校舎に残っていた小学生がいた。真っ暗な体育館の中で「ファイト」と声をかけ合って勇気づけあった小学生がいた。一方、校舎の中で津波から逃げ込こんできた人々を救助した小学生がいた。今回出会ったのは後者の小学生だった小山綾(おやまりょう)さん(17)。当時小学6年生(現在高3)だ。
「野蒜小卒業生6人で、2015年の5月から『TTT』という語りべグループで活動しています。実は語りべをやろうって誘われても、最初、自分は他の人よりも被災していないから、語る資格がないように思っていました」
綾さんは語りべをする友だちについて行き、話を聞くうちに気がついた。津波の話しは友だち同士でもタブーだったのだ。
「でも、それじゃあいけない。校舎の中で何があったのか知って欲しいと思いはじめました」
TTTで活動を始めてから、語りべは30回ほどしたという。
「これからも語っていく」
「校舎から車や木々が流されていくのを見ました」と綾さんが言うように、津波の襲来で体育館や校舎の周辺に大量のがれきが幾重に重なっていた。大人たちは総出で下敷きになった人の救助やがれきの片付けに追われていた。綾さんたち小学高学年の子どもたちも手伝いをした。その後、図書館に避難場所を移し、残された小さい子の面倒を見た。「お父さんやお母さんが救助活動をしているので、絵本を読んであげたり、手遊びをしてあげました」と綾さん。「水が引いて体育館からびしょ濡れの人たちが次々移ってきました。私たちは体操着袋を各教室から集め体操着を出してみんなに配りました」
夜が明けた。綾さんは校舎の入り口に遺体が並んでいるのを見た。被災直後だったため顔は覆われておらず、口をあけた苦しそうな表情だったと教えてくれた。
綾さんの家族はみな無事で、自宅も流出を免れた。
「まわりの友だちは『オレは家がない』『じいちゃんが死んだ』という辛い話しばかりでした」。だから自分の体験はちっぽけで、人に語るには後ろめたかったのだとも。でも今は違う。
「自分が忘れないためにも語って伝えることが大事だと思います」。これからも語っていきたいという。一方で、「今もサイレンが怖いし、テレビで地震発生を知らせる発信音を聞くと泣いてしまう」と、何年経ってもつらい記憶であることも事実だ。
4月から通う大学では防災関係の勉強をしたいとほほえんだ。
(介護福祉ジャーナリスト・甘利てる代=八王子市)