vol.55 全てを失ったけど「命があって、それだけで満足です」

 3月11日。東日本大震災から6年が経ち、7年目を迎えた。あの日、とっさの判断で野蒜小学校体育館(宮城県東松島市)ではなく裏山に逃げた小山美音子さんは、静かに失った人々を思った。

体育館のある場所は「低い」と思った

小山美音子さんは「当時小学5年生だった孫は、今でもあの時体育館に行かなかった事をよく覚えています」と言う

小山美音子さんは「当時小学5年生だった孫は、今でもあの時体育館に行かなかった事をよく覚えています」と言う

 「東日本大震災の日、私は77歳でしたが、それまでただの一度も野蒜の海に大津波が来るという話を聞いたことがありませんでした」と小山美音子さんは語り始めた。
 小山さんの家は東名運河の堤防の下に建っていた。その場所に住んで30年以上は経っていたという。息子夫婦と孫2人の5人家族だった。
 「家にいた私は、小学校の孫が帰宅する時間だから、行き違いにならないようにここで待とうと決めていました」
 やっと孫が帰ってきた。聞けば、堤防の土手の上で地震に遭遇し、あまりの激しい揺れに、座ったまま身動きできなかったという。
 小山さんは車に孫と飼い犬1匹、貴重品を少々持ち込んで発進させた。車が野蒜小学校の横を通り過ぎた時、孫が言った。
 「おばあちゃん、避難場所は体育館だよ」
 それを聞き流して、小山さんは野蒜小学校の後ろにある山に登って行ったのだ。
 「だって毎日地元を歩いていると、小学校付近の土地が下っているのが分かっていたの。そして、目で見ても明らかに低いのも知っていたから、野蒜小学校の体育館が安全とは思えなかった」
 小山さんの車に続いて次々と車がやってきた。
 そして、間もなく津波が押し寄せ、体育館の人々を呑み込んだ。

花びん一つが残った

ただ一つ残った花びんに花を生ける

ただ一つ残った花びんに花を生ける

 小山さんが山に向かう途中に、行き違った知り合いもいる。大きな揺れがおさまったから家に戻ろうとしていた人だ。「美音子ちゃん避難するんだね。大丈夫だと思うけど」、そう言っていた人は津波にのまれ帰らぬ人となった。
 山の上で難を逃れたものの、自宅に戻るとそこには何も残っていなかった。
 「砂に埋もれて花びんが一つあっただけです。あとは趣味でやっていたフラダンスのスカートが一枚、木にかかっていたのを思い出します」
 77年間の全てが水の泡になったと感じた。ひとまず、仙台に居を移したものの喪失感は大きく、何も考えられない時期が続いた。
 「ある日、知人と野蒜弁でしゃべる機会があり、みんなで語る場を作ろうと思いました」「鳴瀬サロン」(2016年6月号掲載)の誕生(2012年8月。初代会長が小山さん)だ。
新築の家で息子家族と一緒に暮らす

新築の家で息子家族と一緒に暮らす

「サロンのおかげで、亡くなった人の分まで元気に暮らさなければと思えるようになったのです」と小山さん。
 現在は野蒜の近くの東名地区に新居を建て、息子家族と同居しているが、仙台で開催されているサロンにはできるだけ行くという。
 「命があってそれだけで満足です」という小山さん。乗り越えたものの大きさを思うと胸が熱くなる。
 (介護福祉ジャーナリスト・甘利てる代=八王子市)

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