vol.57 東松島のパン屋の2人(2)

「私だけが生き残った」と思った

「ぱぱいやぱんや」は出張販売をすることもある

「ぱぱいやぱんや」は出張販売をすることもある

 震災後11カ月で「手作りパンで地元を元気にしたい」とオープンした小さなパン屋、宮城県東松島市東名地区の「ぱぱいやぱんや」(6月8日号で掲載)。同店を運営する2人の女性から震災当日の話を聞いた。

神社に避難した

阿部さんが津波から逃れて避難した神社。鳥居の奥に石段がある 

阿部さんが津波から逃れて避難した神社。鳥居の奥に石段がある

 「ぱぱいやぱんや」は、まだ町中にがれきが山のように残っていた2012年2月にオープンした。運営するのは、阿部恵さんと野田ますみさん。「地震の時は自宅にいました」と阿部さん。次女と2人だけだった。
 大きく揺れる中、次女を背中におんぶして外に出た。幼稚園に通う長女が戻ってきたら車で避難しようと、車に食料やオムツ、飲み物を積み込んだ。
 「津波が来たぞー」
 あっという間に水が押し寄せてきた。「もっと(水が)来る」と思った阿部さんは家から70メートルほど離れている神社に逃げ込んだ。近隣で一番高い場所だったからだ。
 「避難してきた人は200人ほどいました。小さな神社ですから、大勢の人が座る場所もなく、ほとんどの人が石の階段に立ったまま水が押し寄せてくる様子を見ていました」
 神社は海に浮かぶ孤島のようになった。阿部さんは子どもを背負ったまま、夜中まで階段に立ち尽くしていた。同時に覚悟を決めた。ひどいことが起きているのはここだけではない。だから「助けは来ないかもしれない」と。

義父や友の死を受け入れられなかった

「ぱぱいやぱんや」では原材料にこだわったパンを焼いている

「ぱぱいやぱんや」では原材料にこだわったパンを焼いている

 夜中、水が引いて社務所に入ることができたが狭くて、結局、子どもを背負ったまま空が明るくなるのを待った。
 「不思議なんですよ。いろいろ積み込んだ車が流されてしまったから、子どもも飲まず食わずだったし、オムツだってそのままです。でも泣きもせず、ぐずりもしませんでした。1歳でもただならぬ事が起きたと感じていたのかも知れません」
 幸い夫と長女は無事だった。だが、義父は避難途中に津波にのまれて亡くなった。また、大切な友も失った。
 「震災を期に、忽然と姿を消してしまった人たちの死をなかなか受け入れられませんでした」と、阿部さんは静かに話を終えた。
 一方、野田さんはあの日、自宅のある宮戸島にいた。夫と長男は無事だと分かったものの、海が近い野蒜(のびる)にある幼稚園にいた長女の安否は確認できなかった。宮戸島と野蒜をつなぐ橋が流され、情報も物資も途絶えていた。
 「長女がどこにいるのか2日たっても分かりませんでした」駄目かもしれないと、何度思っただろうか。3日目にようやく無事だと連絡が入った。お寺に避難したというのだ。
 「長女に聞くと、家族の安否が分かるまでは、一人だけ生き残ったのではという不安な気持ちが強かったといいます」と野田さん。そう思った人は多かったに違いない。
 生と死が交錯した東日本大震災の体験を語り継ぎたい。
 (介護福祉ジャーナリスト・甘利てる代=八王子市)

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