vol.48 東松島、人々の記憶を訪ねて(8)

語りつぐ次世代を生み出す

 
東日本大震災で被害の大きかった東松島市の東名や野蒜地区の震災記録を残し、次世代に語りついでいきたいと活動する東松島市社会福祉協議会・生活復興支援センターで話しを聞いた。

記憶を風化させない

「かぜの子しんぶん」の記者が高台移転造成工事の現場を取材した=東松島市社協提供

「かぜの子しんぶん」の記者が高台移転造成工事の現場を取材した=東松島市社協提供

 宮城県の東松島市社会協議会・生活復興支援センター(以下、復興支援センター)では東日本大震災直後から、市が設置した「被災者サポートセンター」などの運営に関わってきたという経緯がある。
 ボランティアのコーディネートや被災の記録化などの他にも、被災経験を被災者が自ら語る「語りべ」活動などのバックアップも行っている。
 今回取材した、復興支援センターの若手の2人は、記憶を風化させずに語りつぐことに意味があると話した。渡辺英人さんと金須(きす)健さんだ。
 渡辺さんは震災当時は実家の農業に携わっていた。住まいは松島湾でも海に一番近い「陸前大塚駅」のすぐそばだったが、津波被害は殆どなかった。ところが小山一つを隔てた東名地区を見たときその様子に「目を疑った」という。
 ヘドロに埋まった地がそこにあったからだ。
 「自分は大丈夫だからこそ手助けしたいと思いました。市社協の災害ボランティア募集があったので直ちに応募しました」
 ボランティア後に社協職員となった。
渡辺英人さん

渡辺英人さん

金須健さん

金須健さん

 渡辺さんは言う。「仮設暮らしの方々の不安感や癒やされない心は、6年目を迎えても訪れる度に伝わってきます。特に子どもたちのことが気がかりです」。
 大人の語りべはいるが、子どもたちの気持ちはどうだろうか。中でも約350人を超える住民が避難し、死者まで出た野蒜小学校に避難していた子どもたちが、あの日とどのように向き合っているかが気になっていた。
 だが、「子どもたちは子どもたちの力で乗り越えようとしているんですよ」と言うように、近年、語りべとして活動を始めた高校生(当時小学生)もいる。高校生の側面支援を行うのも、また渡辺さんたち社協の仕事だ。

小学生の目線で伝えること

子どもたちの成長とともに漢字表記になった「かぜの子新聞」

子どもたちの成長とともに漢字表記になった「かぜの子新聞」

 金須さんが示してくれたのはA3の紙に印刷された「かぜの子しんぶん」だ。記者となった子どもたちが震災後の地域を取材したり、行事などに参加して、自らのことばで発信するのが特徴だ。
 取材、紙面作成までを子どもたちが力を合わせて行う。仮設住宅をはじめ地域センターなどに配布されている。
 編集部員は震災当時、小学校1年生だった東名地区の子どもたち7人ほど。震災の翌年から始まって現在11号を発行し、子どもたちは6年生になった。
 活動を支える社協職員のコメントに、津波で空き地になってしまった公園の取材に行った際に、遊具のあった頃を思い出し、見えない遊具で遊んでいた子どもたちの姿が印象的だったとあった。幼かった彼らもまた被災者なのだ。
 金須さんは「子どもたちが取材活動を通じて、震災の経験をどう伝承していくかが今後の課題だと思います」と言う。そして、伝承の継続には、社協が果たす役割はあるという。
 「今でも(津波のこと)話せない子どもが大勢います」と金須さん。
 常に子どもたちのことを忘れてはならない。
 (介護福祉ジャーナリスト・甘利てる代=八王子市)

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