vol.46 東松島、人々の記憶を訪ねて(6)

海苔も船も「みんな無いっちゃ」

 東日本大震災(2011・3・11)、奥松島の宮戸島(宮城県東松島市)では、昔からの言い伝え通り島民は高台にある宮戸小学校に避難した。島人は無事だったが津波はいくつもの浜をのみ込み、人々は住む家を失った。そして5年が過ぎた。

海苔は出荷2日前だった

自宅と加工場があった跡地

自宅と加工場があった跡地

 宮戸島には海水浴場として知られた浜がいくつもあった。月浜、里浜、大浜室浜などだ。大浜で海苔の養殖と加工事業を手広く営んでいた尾形正明・すみ子夫婦の自宅と工場は浜からわずか100㍍ほどのところにあった。午後2時46分、揺れが宮戸島を襲った。
 最初の揺れの後、大浜地区の皆が自然に集まり「高台(宮戸小学校)に避難しよう」と決めた。手分けして家々に声をかけていると、ラジオから女川(おながわ)に津波が6メートルという放送が聞こえた。
 「間違いなく津波がくる。早く逃げなければ」
 その時、頭のどこかに「念のために逃げるんだ」という意識があったため、「何も持たずに逃げた」(正明さん)という。
 宮戸小学校に避難した10分後、巨大な津波が押し寄せた。小学校から見た津波は家々と無数の船をのみ込みながら迫ってきた。
 「家はヘドロにまみれながらかろうじて残ったけど、海苔の加工場も倉庫も消えてしまった。翌日出荷するはずだった海苔も全部流されてしまった」
 一瞬で500万円ほどの海苔と加工品が消え去った。
 「あの年は特別に出来が良かったのにさ、海苔が一枚もねえんだ」と正明さんは遠くを見た。

仮設から高台へ

尾形夫婦が住む響仮設

尾形夫婦が住む響仮設

 野蒜地区と宮戸島をつなぐただ1本の橋が欠落したため、橋が再建されるまでの1カ月間、宮戸小学校での避難生活が続いた。
 「ものが無かったなあ。風呂もずっと入れなかった。食べるものもなかったから、道の側溝を上がってきた魚を釣って焼いて食べたんだ」
 尾形夫婦は一時、鳴子(同県大崎市)に避難し、5月に響地区の仮設に入居した。仮設生活の中で、すみ子さんは支援員となり、1軒1軒を訪ねて(今年3月まで)見守りを続けてきた。

尾形夫妻

尾形夫妻

 震災から5年を経て、仮設も様変わりしつつあるという。空きが目立つようになった。尾形夫妻は自宅再建は断念したという。津波に襲われた自宅は、実は新築して4カ月ほどしか経っていなかったことも、再建へのエネルギーがわいてこない要因の一つだ。高台の災害公営住宅(貸家)に移るという。すみ子さんはしみじみと言う。
 「今回の熊本地震でも同じだと思いますが、被災直後からさっさと片付けてすぐに再建なんてできません。私はただ呆然とするだけで、そんな気持ちになれなかったから、熊本の方々の気持ちがよく分かります」
 (介護福祉ジャーナリスト・甘利てる代=八王子市)

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