vol.49  東松島、人々の記憶を訪ねて(9)

被災後、手仕事グループを立ち上げる

 宮城県東松島市の野蒜・東名地区は東日本大震災による津波被害が大きかったエリアだ。だが、壊滅的な被害を受けつつも、暮らしを取り戻そうと尽力した人々がいたことを記録しておきたい。

一本遅い電車で命拾い

 「はまぎく会」のメンバー。地区センターで「つるし雛まつり」に参加。前列右から2人目が伊藤さん

「はまぎく会」のメンバー。地区センターで「つるし雛まつり」に参加。前列右から2人目が伊藤さん

 震災後、手仕事をしながらできる「語る場」を始めたのは、東名地区に住む伊藤まさ子さん(70代)だ。
 「実はそれまで裁縫には関心がなかったのですが、小物を作りながら話をすることで、癒やされることに気が付きました」
 2011年3月11日。地震発生時、伊藤さんは姉と共に仙石線本塩釜駅のホームにいた。午後2時56分の電車に乗って東名駅に向かうつもりだった。実は夫の好物の焼きたてパンを購入したために、予定していた一本前の電車に乗り遅れたのだった。
 「命拾いしました。もしその電車に乗っていたら、東名に着く前に津波に呑み込まれていたかもしれません」。駅の隣にある6階建てビルに逃げ込み避難した5階の窓から外を見た。
 伊藤さんが見たのは、車の中からや家の屋根の上から助けを求める人々の姿だった。手を振って叫ぶ人があっという間に流されていく。信じられない光景がそこにあった。
 その夜はビルの一室で過ごした。

語ることで癒やされる

着物地で作る小物は風合いがよく趣がある

着物地で作る小物は風合いがよく趣がある

 一夜明けて、人の車に乗せてもらい、山道を歩いて東名に戻ったのは夕方だった。東名地区を見た瞬間、あまりの惨状に「腰がぬけました」と言う。
 「自宅の前の道路は震災直後、東名で唯一の通行可能な道でした。だから、数え切れない人々が『お父さんどこ』『お母さんどこ』と声をからして行き来していました。声を聞くたびに辛かったですね」
 伊藤さんは自宅の整理と同時に、ボランティアとして動き始める。避難所に行かず、自宅に留まった人やブルーシートで避難生活を送る人々に支援の弁当が届かなかった。配達する人手がなかったのだ。自主的に声をあげた数名で拠点を決め、そこに弁当や支援物資を届けてもらい訪れる人に配った。
 弁当を渡すと苦しかったことや悲しいことを堰を切ったように話をしてくれる人が大勢いた。伊藤さんは思った。「弁当はいつかは打ち切られる。拠点がなくなったら、話す場所がなくなってしまう。何とかしたい」
 震災後に手仕事が趣味になった伊藤さんの作品を見て「こういうのをやりたい」という人が出てきた。手仕事をしながら語る「場」が生まれた。当初は5~6人で始めたサークルは現在14人。「はまぎく会」といい、東名に残った人をはじめ移転先から地元に足を運んで参加する人まで多様だ。
 「手仕事をしながら震災のことを話すことは徐々に減っていますが、同じ体験をした人々が思いを共有していることは意味があります」と伊藤さん。人は人によって癒やされる。
 (介護福祉ジャーナリスト・甘利てる代=八王子市)

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